【紀藤元之介先生 一夕話】今東光先生を語る ・・・易理愚見・・・

【紀藤元之介先生 一夕話】今東光先生を語る ・・・易理愚見・・・


易爺は、小人閑居して・・で相変わらずカラマワリの毎日を過ごしています。
きょう9月19日は今東光先生の命日であり、後醍醐天皇崩御の日です。

後醍醐天皇の崩御は、延元4年/暦応2年8月15日・グレゴリオ暦1339年9月19日であり、
今春聽・東光先生は、昭和52年9月19日に遷化されました。

【紀藤元之介先生 一夕話】今東光先生を語る
 ・・・易理愚見・・・

のお話は、『実占研究』S43【1968年】5月号に掲載されたものです:

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【紀藤元之介先生 一夕話】今東光先生を語る
    ・・・易理愚見・・・

              尚聖館幹事・記



三月三十一日の大法要のあと、急に紀藤先生発病され、ここに一週間臥床され‘テンヤワンヤとなり、月初めにまとめられる幾つかの原稿執筆不能になられたため、気をもんでおられるので口述筆記をとることにしました。今月は趣を変えて、かねて伺いたかったことをおたずねしてみました。今度湯島の聖堂で特別講師として講演される今東光先生について、我々易学徒は先生の御名著「易学史」を学んだほか、戦後の御活躍ぶりしか知らないので、知りたかったわけです。私などが面白いと思うことと、本誌読者の皆様の面白いと思われることと、一致しないかも知れませんが、病床の紀藤先生の語られたことは、平素きけなかったことばかりなので、ここに出来るだけ記録しました。(幹事。記)

◆地獄の一丁目から引返して

 いや―、ひどい目に直った。
 今日は四月八日?お釈迦さんの日だね。誕生会、灌仏会、花まつりだね。精進のいい人はこんなことはないだろうが、先哲の法要を営んだすぐあと倒れたりして、人によると、バチ当ったんだろう、というかも知れないね。また、人によると霊の影響を受けたんだろうという人もあろうね。塚本さんなど云いそうだね。疲労し、カゼを引いて、当日つとめを無事果し、ヤレヤレとなったのだね。そのまえにやられたらまずかったが、おかげさまで無事済んで、仏さま祀りをしたあとで地獄の一丁目へ行ったんだから、云うことはないさ。それにしても苦しかった。生れて一度も入院したことがないのを自慢にしていたが、今度は入院、入棺かナ、と思ったね。兵隊で野山に起き臥ししていたがこんどのように苦しかったのは、はじめてで。だから、越し方について、この機会にウンとしゃべっておくよ。

◆易と政治

 『易学研究』に、今先生と春野鶴子女史が参議院選に出られるとあったね。今先生は全国区、春野女史は東京地方区だそうだね。春野女史は、同世代の人だがバイタリティに富んだ人だし、活動家で頭がさがるね。あヽいう人が、どんどん出ていって、積極的に発言してくれることはいいことだよ。易精神を体得している人だし、政党はともかく、人の点で買うね。だいたい易は、政・経両方面で大いに活用してもらいたいものなんだ。儒者、学者は、眉をひそめるかも知れないが、そんなことはないよ。昔の中国のえらい学者は、政界にどんどん乗り出して経綸を行った。今先生のようなかたが、易精神をもとにして、国のために大いに発言し、行動して下さるのはいいね。
 戦後、占業界から、山口凌雲先生、没くなられたが。それから山本長蔵先生、衆議院選にそれぞれ出馬されたが(いずれも東京)成功されなかった。やはり無理だったんでしょう。
 衆議院では。参議院は同じ国会議員といっても、ぜんぜん違うね。今先生の友人では、路傍の石・真実一格、などの山本有三氏が議員をやったね。毒舌和向の毒舌がきけなくなるからさびしいだろう、などという、いわゆる毒舌ファンの支持だけじゃダメだ。そんなことより国政にあのバイタリティを注ぎこんでもらうことだ。あんな毒舌なんか、今先生の全容からすれば一部の表皮にしか過ぎない。
 又、易の理解者だからといって、ナマの易をそのまま国政に反映してもらおうとか、易の社会の職域代表みたいな期待をもって、送り出すようなつもりではいかん。そんなことは抜きにして、あの”見識”を発揮し直接国政を担当してもらえるように期待すべきだ。国会では、毒舌をふるったりしてもらわなくていい。又、易の社会を裏街から表街道に出してもらおうなどと、さもしいことを考えず、屯の初六となってもらいたいものである。
(侯ヲ建ツルニヨロシ、建テラレテ侯タルニヨロシ)だね。


◆昔ばなし

 大阪へ.加藤先生や今先生と一緒にはじめて講演旅行にきたときの話は、あれはたしか昭和十三年【1938年】の正月のことで、塚本さんも一緒だった。古い易友の柴野さんなどそのときのことをよくおぼえていて、よく話にでる。

 わしがはじめて応召したのはその翌年の十四年だが、日の丸の旗に、加藤先生は泰の初爻の辞、「抜茅茄・・・」を書いて下さったが、今先生は「天下布武」信長のことばかな? とにかくあのころも勇ましいことが好きだったんだね。防衛庁長官みたいだね。(兵卒でゆく わしに、天下市武だなんてね。)

 三カ月ほど軍隊でしぼられて、わしもいよいよ出征だ。二泊三日か、休みをもらって東京へ帰ってきた。加藤先生や今先生が、すぐ方々へ通知して、渡支歓送会をして下さった。いまもある。神田の「お座敷・本郷」という料理屋。紀元書房から五十メーターばかりいったところだ。皇軍万歳と書いた大きな横額の下で、記念写真をとった。
そのときは、わしともう一人、戦友が一緒だった。その男は北海道へ帰れないからわしと一緒に東京へ出て、わしと揃いの白ガスリを着て、この歓送会に出た。優秀な男で、この男は中隊で一番、わしがビリ。軍隊というところは不公平で、一番もビリも一しょに一等兵に進級させた。この一番の男、岡部秀男は、今では旭川市の助役をやっている。社会党で市会議員かなんかやってたらしいが、市長にたのまれて助役になったと云ってきた。易のことは何にもしらないが、こういう縁で加藤先生や今先生を知っている。

 そのとき集った人? 塚本さん、磯田英雄さん、斉藤鉄夫さんもいたな。柳井豪三、杉山天哉、そうそう。清原豊喜、石川雅章の諸先生も見えて、今先生の音頭で「しっかり戦ってこいよ」と送り出された。

 それから何日か経って、わしたちは芝浦から船出することになった。又、加藤先生、今先生、塚本さんなど芝浦へかけつけて、八月の暑いさなか、兵隊が靴音高くザックザックと行進する。そのそばを今先生、円頭に手ぬぐいのせてブーフー云いながら。そう、まだ四十すぎたぐらいだったが、もう円げていたナ。たしか。塚本さんはあんな銀髪じゃない。三十そこそこだったから黒髪ふさふさだった。加藤先生も三十になったばかりだったが、いまと同じチヨビ髭があった。三人でわしや岡部の民泊しているところへきて、ごちそうしてくださった。戦争はよくないことだが、人情の通い合うよさはあったナ。

 塚本さんの話だけれど、あの人のお師匠さん、長田竜省上人のところで、毎月例会があって、谷崎潤一郎先生、佐藤春夫先生も一緒に、加藤先生、今先生、みんなで揃って、わしの無事帰還の祈願をして下さったそうだ。わしが無事戻ったら(わしのおぼえている戦闘は、47回あった)「おまえ、相当悪運強いヤツだナ」と今先生にどやされたっけ。まあ、そんなことがあったよ。


◆戦 後

 二度目の出征から戻ったのは、敗戦後の昭和二十二年ビルマ からだが。
 関西へ? ・・・あっそうそう。飛田給【当時の今先生の住所】の今家の秘仏をわしが首にかけて明西へ先発したこと?  そうそう、その仏像にわしが「昭和三十年今東光開運」と書いたものを入れて、一反【いったん】の晒【さらし】でぐるぐる巻いて、中身が何だかわからないようにして奉持してきた。先ず、京都御所の近くの吉田に当時住居していた、今井規清さんの家へ一泊した。それから当時、南河内の三日市に住居していた、柴野光謙さんの家へ一泊した。その仏像もって河内の山へ登り、山に臥し、やがて大和の春日山へ。・・・それが天台院の秘仏だ。この道順に意味がある。東光太平記のなかにも出てくる。

 あの仏様はあらたかだ。昭和三十一年に今先生が、「お吟さま」で直木賞を受けられたが、秘仏信仰のおかげもあると思うね。わしはそう思っている。この西行のことは、加藤先生も、塚本さんもよく知っておられる。しかし、仏様は慈悲だ、平和を愛好される。今先生には防衛庁長官なんかより、文部大臣でもやってもらうほうがいいナ。その秘仏は不動尊ではなく、愛の仏様だからだ。

 一小説家、一坊さん、一易者であるより、国政を料理する包丁【易爺 ホウギ氏・伏羲氏】になってもらうほうがいいね。選挙のことだからどうなるかわからないが、ねがわくば国政の中心に座ってほしい人だわ。

 いま?  人にはそのときどきに有用な人がある。大世帯のあるじには、それぞれその時代の番頭、執事、秘書、適材が必要で又、そういう人が揃ろもんだ。昔どうということより、今の役に立つ人が大いに側近ではたらく。それも” 易”だ。
(「少しくたびれた、やすましてほしい」と云われましたので、ここで打切りました。あしからず・・・ 文責在記者)



いま、世界は大きく変化しようとしていますが、【易爺】はジジイですので多くは望みません。
逆に考えると大きなチャンスでもあります。しかし、次の時代の”幾”をみることは簡単ではないです。

古代支那の春秋左氏伝にある「國の大事は祀と戎に在り」に倣って国防と祀りを守り抜くことが重要です。
日本には大昔から代々引き継がれてきた文化や伝統・風俗習俗がありましたが、そのほとんどが消滅寸前の状態です。

祀とは、万世一系の日本の天皇制の存続と教育です、祀とは「示+巳〔み・十二支のみィさん=ヘビ〕」ですが、十二支の巳〔み〕はもと十二支の子【ね】でしたので、無理やりのこじつけですが、教育です。いまの教育制度は全くダメです、・・・ナンテ書き出したら切りがないので、今日はここまで。


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・・・【易爺】が前々から心に抱いている書きたいことは、まだ書く時期でないぞ、という意味かもしれませんね^L^・・・

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